ゲームについて
「ゲームは好きなだけやらせて良いのか?時間を決めたほうが良いのか?」と聞かれることがあります。私の答えは、「好きなだけやらせてはいけません。ゲームの時間のルールを決めてきちんと守る習慣をつけましょう」です。なお、ここでは「ゲーム」という言葉を使いますが、YouTubeやTikTokなどの視聴も同様の扱いであると考えてください。ゲームの時間を制限しなければいけない理由は2つあると考えています。

1つ目の理由は、当たり前のことですが、ゲームをやっている時間には、ゲーム以外の体験ができない、ということです。我が家ではゲームは30分間と決まっています。さすがに短すぎるとも思いますが、我が家の子ども達はゲームへの親和性が低く、子どもが小さな頃に決めたルールが変更されずにここまで来てしまっただけで、特に厳しくしているわけではありません。ゲームをしていない時間に子ども達は何をしているかというと、本当に色々なことをやっています。読書・勉強・パズル・数読・家の前でバトミントンなど名前のあることから、クラスの子の名前を席順に紙に書く・筆箱の中身を整理する・犬の写真を撮る・保育園の卒業アルバムを見る、カラオケで歌おうと思っている歌をリストアップする・YouTuberの真似をして動画を録る(アップはしない)・筋トレメニューを考える(実行しても3日で終わる)・お風呂で音楽を聴いたりおやつを食べたりする、など一言では説明のできない遊び?を思いついては楽しそうにやっています。もちろん、やることがなくなって「暇~暇~」と言っていることもありますが、そのうち何かしらやることを見つけてせっせとやっています。そういう姿を見ていると、決まった形のない遊びの中に工夫や発展や喜びが見られ、そういう時にこそ脳が一生懸命に働いているのではないかなあと感じます。ゲームの時間を増やすことでこういう時間が減ってしまうのは残念なので、今のところ我が家のゲーム時間は30分のままです。
2つ目の理由は、ゲーム以外の体験ができないということを超えて、生活よりゲームを優先し本来やらなければいけないことすらできなくなることがあるからです。これは、勉強、学校、友達関係、親子関係などがうまくいかなくなってきた時に問題になりやすいように感じます。大人であっても、面倒なことやつまらないことよりも、簡単なこと楽しいことのほうが取り掛かりやすいに決まっています。子どもであれば、楽なほうに流されていってしまうのはある意味当然でしょう。
ゲームへの親和性は子どもによって異なります。もともとあまり興味を示さない子どももいますし、一定期間は夢中になっていてもやり過ぎると飽きてしまう子どももいます。一方で、ゲームにのめりこみやすく、食事や睡眠に影響するほどゲームをやり続けてしまう子どももいます(このような子どもの多くはASD・ADHDなどの発達の特性があります)。後者のようなゲームへの親和性が高い子どもの場合は特に注意が必要です。なぜなら、このような子ども達は、「ゲーム障害」という、ゲームのコントロールができない、日常生活の様々なことよりゲームを優先してしまう、 問題が生じていてもゲームを続ける、というような状態に至ることがあるからです。現段階では、ゲーム障害の治療法は確立していません。ですので、ゲーム障害については、予防することが何よりも大切なのです。
まとめると、ゲームの時間を制限しなければいけない理由は、①ゲーム以外の様々な体験およびそれに伴う脳の活動を得る機会が失われるから、②やらなくてはいけないことよりゲームを優先してしまい、生活(特に子どものうちは親子関係)に支障がでるから、と言えるかと思います。
子どもは小さな頃は親の言うことを聞きます。というより、子どもに小さな頃から必要なことを教え、してはいけないことはやめさせ、家庭や社会のルールを学ばせていくことが子育てそのものであるとも言えます(もちろん子育てには他に色々な要素があります)。ですので、小さい時(=ゲームを手に入れた時)からきちんとしたゲームのルールを決めておくことが大切です。ゲームの問題が生じてくる小学校高学年や中学生になると、親の言うことをなかなか聞かなくなってくるからです。子ども側の視点では、今までは(親に文句を言われながらも)好きにやってOKだったゲームをなんで今更ルールを作って我慢しなきゃいけないの?と思うのではないでしょうか。問題が大きくなってから、ゲームのルールを作り守らせることは、本当に大変なことです。ですので、まだお子さんが小さなうちに、ゲームについてしっかりと夫婦で話し合い、きちんとしたルールを決めて、実行しましょう。
大人でも、ゲームが好きで、寝食を惜しんでゲームを楽しむ人もいるでしょう。しかし大人と子どもでは話が違います。子どもは、大人よりも衝動や欲求のコントロールが未熟ですし、先のことを想像し見通しを持つ力も不十分です。大人は自己責任でゲームを楽しめばよいですが、成長途上の子どもを導くのは親の責任です。そして子どもを導くために重要なことは、親が自分の考えに自信を持ち、子どもとの一時的な衝突も覚悟の上で、一貫した行動をとり続けることです。
ゲームのルールを決める
まず、ゲームの利用時間については、各家庭の生活スタイルや親の考え方で異なってきますので、一概に何時間がよいとは言えません。下校後~就寝までの時間から、宿題や食事や入浴など生活の時間を差し引いた時間をもとに考えてみるとよいと思います。しかし実は、ゲームの時間自体はそれほど問題ではなく(よっぽど多くない限りは)、ルールを決めた後に「ルール通りに実行する」ことがとても難しくかつ重要です。ルール通りに実行するために重要なことを、①親子で話し合いお互いに納得する②親子の衝突を最小限にするような工夫をする③親は一貫した態度をとる、の3つのポイントにわけてお話ししたいと思います。
① 親子で話し合いお互いに納得する
子どもが小学生くらいであれば、ルールを一緒に考えましょう。大切なのは、そのルールに子どもが納得していることです。子どもの年齢や、家庭の生活スタイル、周囲の状況などを考慮しながら、家族で話し合いましょう。また、大好きなゲームの時間を、ルールで決められてしまうことに納得がいかない子供もいます。そのような時は、「ゲームは楽しいからいっぱいやりたくなってしまうけど、小さい時からゲームを好きなだけやっていると、大人になった時に、やめてたくてもゲームをやめられない人になってしまうことがある。だから小さいうちからルールを決めて守る習慣をつけておかなくてはいけない」と説明すると、「なんだかわからないけど恐ろしいことになるのか???」とビビってルールに従うことに同意してくれる子が多いように感じます。
② 親子の衝突を最小限にするような工夫をする
ゲームは毎日のことなので、ルールをめぐってのストレスはなるべく減らしたいものです。時間制限の機能を利用して、自動でゲームができなくなるようにしている家庭は多いと思われますが、これも工夫の1つです。
一日のスケジュールのうち、ゲームの時間をどこに組み込むと切り替えやすいのか、を考えてみることは意外と役に立ちます。嫌なことが待っている状態よりは、好きなこと楽しいことが待っている状態のほうが切り替えはしやすいでしょう。
また、ゲームをもっとやりたい、とぐずったり怒ったりした時に親が答えるセリフや対応をあらかじめ決めておくこともよいでしょう。一度決めたルールについて、子どもが「友達はもっとやっている」「本当は自分は納得していなかった」などと言い出しても、その場で言い返すのはやめましょう。冷静な判断ができなくなっている子どもとの口論は不毛です。親も感情的になってしまいストレスがたまったり関係が悪化したりするだけです。その場では、一つ一つの言い分には答えず、「でも、決めたことだからね。次の話し合いで考えよう」のような答え方を決めておきましょう。
③ 親は一貫した態度をとる
これは子育て全般に言えるのですが、親が一貫した態度をとる、ということはとても大切です。言ったことをきちんと実行しない親は、子どもに信頼されず子どものよいボスにはなれません。②でも少し触れましたが、子どもがぐずったり怒ったりしたからと言って、ルールを曲げてはいけません。ぐずったり怒ったりすれば、親が言うことを聞いてくれる、と子どもが間違って学んでしまうからです。ルールを決めるからには、親側にはそれを貫くための覚悟が必要になります。子どもは、不思議と大人の覚悟を感じ取るもので、覚悟のある大人の言うことは比較的素直に聞くように思います。
しかしルールを決めてやってみたものの、実行が難しかったり、子ども側(あるいは親側)に不満が生じたり、当初と状況が代わったりすることがあります。このような場合にはあらためて家族で話し合い、ルールを微調整(あるいは大幅な変更かもしれませんが)する必要があります。あるいはまた特別な事情がある時には、ゲームの時間を減らしたり増やしたりすることもあるでしょう。矛盾するようですが、このような柔軟性もまた、子育てに必要です。子どもは、「親はいつも言ったことを必ず実行するが、事情がある時には融通をきかせてくれる」と感じ、親のことをより信頼するでしょう。
子どもがある程度大きくなってから始める場合、親子がお互いに感情的になってしまったり、親がルールを徹底できなかったり逆に柔軟に対応できなかったり、と家族内だけでは難しいことがあります。そのような場合には、第三者(病院の心理士、スクールカウンセラー、放デイ、訪問看護)に介入してもらうのがよいでしょう。しかし、主役は飽くまで親子ですので、第三者任せにならないように気を付けてください。子どもから逃げずにしっかりと向き合い、共に考え協力していく、という過程にこそ意味があるのです。